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中京テレビNEWS

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2.9万 回視聴 ・ 368いいね ・ 2025/01/09

当時16歳だった少年が書き綴った「B29空襲日誌」。
空襲に逃げ惑う日々が細かく記されている一方、そこには飛行機に想いを馳せる“素直な気持ち”も書かれていた。“あの時代”を生き続けた少年のリアルな本音と日常。空襲日誌から、令和を生きる私たちが受け取るべきこととは。

名古屋市瑞穂区にある『名古屋市博物館』に寄贈されている一冊のノート。
背表紙もボロボロで、用紙も茶色に日焼けしている。学校で使う予定だったのか、表紙には「国語」という文字が書かれているが、その文字は線で消され、“B29空襲日誌”というタイトルに書き換えられていた。表紙をめくると、アメリカ軍の爆撃機「B29」のイラストが目に飛び込んできた。内容は、太平洋戦争末期に名古屋市などを襲った空襲。その“日誌”は、表やイラストを交えながら、4か月にわたって綴られていた。

寄贈したのは、名古屋市南区に住んでいた、二村允さんだ。大阪府茨木市に住んでいる二村さんのもとを訪ねた。玄関のチャイムを鳴らすと、笑顔で迎えてくれた。現在96歳の二村さんは、近くに暮らす娘に支えながら暮らしていて、趣味の囲碁などに出かけることもあるという。
見せてくれたのは、1945年3月と書かれた、当時16歳の二村さん自身の写真。まさに太平洋戦争末期、二村さんが空襲日誌を書いていたころの姿だ。

名古屋への初空襲は1942年に「B25」によって行われたが、「B29」による本格的な空襲が始まったのは、1944年12月。この時から、二村さんは空襲日誌を書き始めた。当時、父親が戦争で留守のなか、名古屋市南区で母親と妹2人の4人で暮らしていたという。

1944年12月13日の日誌には、二村さんらの頭上を通っていった米軍機の様子や名古屋市東区にあった戦闘機のエンジンを製造する軍需工場が爆撃されたことが書かれている。そうした中、「二時間以上モ上ヲ見テ居タノデ首ガ痛クナッタ」というような、当時16歳だった二村少年の体験談やどのように米軍機が飛行していったのかが、イラスト付きで記されていた。

1945年1月3日の日誌には、勤労動員で港区にあった『住友金属工業』で働いているときに空襲警報が鳴り、工場を出て避難しようと逃げ惑う二村さんらの行動が細かく記され、「北ニ逃ゲナイデヨカッタト思ッタ」「敵機ノ通ッタアトハ大火事ダ」など、当時の心境も書き残されていた。
80年前、二村さんは何を思い、「B29空襲日誌」を書き続けていたのか。

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news.ntv.co.jp/n/ctv/category/society/ct8518c873fb…

00:00 イントロ
00:37 古いアルバムを取り出す二村さん
01:28 当時16歳の二村さん
01:40 初めての空襲
02:11 空襲日誌
02:45 1944年12月13日の日誌
04:04 1945年1月3日の日誌
04:49 1945年3月 名古屋空襲激化
05:51 1945年6月9日の熱田空襲での悲劇
07:18 二村さんの思い

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